『レプリカたちの夜』
この小説は教え子から勧められた。その教え子はたいへん素晴らしい感性を持っており,また本人の書く小説も見事だ。そんなひとの勧めであるから,これは私が研ぎ澄まされ途中で邪魔が入らないときに読まねばならないと高いところに置いているうちに,勧められてからずいぶんと時間が経ってしまった。そんな甘やかされた時間はやってこないのだと思い直し,まだ会話のできない我が子の泣き声を数度相手しつつも,一日で読み終えた。
私は高校時代から小説を好んで読むようになったが,話の面白さよりも表現を味わうことこそを尊んでいる。現代文の授業がよかったのだ。しかし,この作品は「新潮ミステリー大賞受賞作」という宣伝文句である。私の趣味に合うことはあまり期待していなかった。謝らねばならない。この小説は,ほかのジャンルでもあるかもしれないが,確かに純文学でもある。
第一印象は,「漢字の使いかたが独特だ」である。「いう」「おもった」などはひらがなで書かれている。はじめ,若干読みにくい。ところが,しばらく読んでいるとあえてそうしているのかもしれないという気分になってくる。「おもう」を簡単に「思う」などとしてよいのだろうかと感じられるのだ。そうなると,多少読みにくいと思っていたことなど忘れ去られる。これこそが正しい表現だったのだ。
登場人物たちの主義主張はかなり激しい。哲学的な話・倫理的な話・感性的な話などが挟みこまれる。また,専門用語も比較的多いし,独白も長い。私はもとよりこれらの分野に興味があったので戸惑わなかったが,興味のない人にはやや読みにくいかもしれない。それくらい,正面切って現れる。はじめ,こうしたものがテーマだろうかと自分の価値観と照らしていたが,そうしたことはしないほうがよいように思われる。主人公とともに翻弄され,感性のまま受け取ればよさそうだ。
私はうみみずと仲良くなれるだろう。彼女は人間を特別視するのは単なる人類の傲慢だという態度を崩さない。一方,粒山とは仲良くなれそうにない。しかし,見どころはある。桜や月を見てきれいだと思うことを芸術的な感性だと褒めておいて,ぼくも女性をみるときれいだなあかわいいなあと思うから文化的だと言ってしまうのだ。素晴らしい。いかにも人類である。
ある程度読んでいくと,ミステリ小説を読んでいるのだという前提から解き放たれる。どうにも前後がおかしいという程度では,それが真相にかかわっているのだろうかと疑いながら読まねばならないだろう。そうではなく,脈絡だとかそうしたものを考えなくなる。人が空中に飛んでゆこうが,そうだな,と受けいれられる。この体験は,説明しがたい。目の前に現れる内容を表現を素朴に味わえるようになる。ふつう小説には,物語のために置かねばならない部分というものが少なからずある。もっとも輝かしい場所へ連れてゆくための道だ。道は,それ自身が輝いていなくとも,その小説には欠かせない。しかし,こうなってしまうとそうしたものはない。結果,味わい深い多くの場面と,入れすぎた香辛料のようないくつかの場面に分かたれる。しかし香辛料好きもいるであろうし,私にとっては味わいである強めの酸味が苦手な人もいるであろうから,この小説のよさを言葉にするなどという試みは頓挫するだろう。
『レプリカたちの夜』は長い散文詩なのではないだろうか。読んでいると,好き嫌いが浮かびあがる。好きになれなかった部分を読んでいるときは,ここを削ればより味わい深い作品になるのに,などと考えてしまいそうになる。いや,この作品が素晴らしいのは,美しいばかりではないからだったのだ。
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新潮社,レプリカたちの夜。新潮社,参照 2022-08-15。 ↩︎