SNS から blog への帰還

私は twitter のアカウントを持っている1。2017年に登録してから長い間そのままにしてしまい、2021年ごろに再び使いはじめた。

ところが、ある頃から囁かれはじめた検閲の疑惑にはじまり、運営会社の買収からのサービスの変化とそれに伴うユーザー離れに至り、また足が遠のいてしまった。

自ら何かを伝えるところとして整えておきながら、荒れるままにしておくのはよくないだろう。万が一、見てくれる人がいるのであればなおさらである。

そもそも、ウェブ上で記事を書くのは何のためであったか。設立趣意には次のように書いている。

  • ひとという生きものは、ひもすがら何かを感じ考えるものである。しかし、そのほとんどは埋もれてゆく。 そうして、同じことを繰り返し思いつき、同じことを幾度も悩む。そのいくらかでも振り返れるようでありたい。
  • そこで、日記をつけるひともいるだろう。 れはそれで味わい深い。しかし、日記は書くところに重きがある。私は思い出したい。想うに随った留め書き、その塵が積もるところとしてこれを立てる。
  • 役立つことは考えない。しかし、手元に残すだけでは曖昧になる。こうして読まれる形をとれば、自然と輪郭を持つ。
  • 外にそうしたところもあるが、いつ失われるかわからず、また恣にされかねない。 自らの足でここに立つことに意味があると思われる。

これをもとに改めてまとめると、次のようになった。

  • 日ごろ思うことを書き留めるため。仕事であれ、私生活であれ、自然とさまざまなことを考えるものである。しかし、それらは努めて控えなければ消えてしまう。どのようなことでもウェブ上の記事にするという意識を持てば、残す習慣がつく。
  • すでに考えたことを振り返るため。何でも記す習慣をつけたとしても、自分しか読まないとなれば往々にして粗くなる。それでは、思考の背景や理由は見いだせない。あるいは、触発された記事があっても見つからなくなってしまう。記事を公開するとなれば、自然と説明を加えるうえ、引用・出典も欠かせなくなる。
  • 記事を目につきやすくするため。Hugo によってウェブサイトを作れば、日付・カテゴリ・タグが自然とつき分類がしやすい。さらに、サイト内検索も使える。私はかつて考えたことを再び悩み、似た結論を導いてしまうことがしばしばある。詳しく書かれた文が残っていれば、不毛な時間を使わずに済む。
  • 資料へ転用しやすくするため。私は教員として働いている。一度考えたことを、ある場面で伝えることがよさそうだと思い至ることもある。そのとき、ウェブ上で公開できる記事として仕上げていれば、生徒へ配る資料にすることはたやすい。また、私は数学についてのウェブサイトも運営している。こちらの記事にすることは、さらに簡単である。

結局、私が twitter に求めていたものは、よしなしごとを取り繕わず置いておけること、というほどのものであった。Twitter は SNS であるから、お互いのやりとりやほかの人に読んでもらうことが意識されている。しかし、私はそうしたことのために twitter を使っているのではなかった。

もちろん、twitter にアカウントを持ってよかったことはある。たとえば、jpneduenumerate / jpnedumathsymbols パッケージを作ったときには紹介していただけた。自分のために作ったものとはいえ、たいへんありがたい。

しかし、社会の移ろいによって記録が取り出せなくならないかを気にしたり、その場所ろを使いたくなくなったりといったことに乱されるくらいであれば、私が思うままにできるところで穏やかに過ごせばよいのではないかと思うに至った。

これまでに何度も間を空けてしまってはいるが、改めて始めてみよう。


  1. 日下部幽考,(twitter)。(twitter),参照 2024-01-27。 ↩︎