国と教室の多数決

思いがけず出会った記事だが、民主主義や多数決とはこういうものである1。人類みなが限りない利己的存在だとは言わずとも、喜んで自らの不利益を被って直接に関わらない後世を幸せにしようと願う聖人君子の集まりでもない。または、「ここは将来のために手厚くすべきだろう」という感性そのものも、自分の理想を表れであるという意味では利己的だと言ってもよい。これからの社会保障を少しでもよいものにするためには、若い世代が十分に学び、しかるべき投票行動をせねば必要条件すら満たせない。

民主主義がよく働くためには、知性と倫理観を併せ持った有権者みなが真摯な投票行動をとることが最小の前提である。したがって、教育の場では投票行動がどのような結果を生むのかを学んでもらいたい。

教室では、いろいろな場面で多数決が行われる。次の自由なホームルームに何をして過ごすか、多数決を取るさまはたやすく想像できるだろう。しかし、これはかなり手荒である。もっとも酷ければ、数分それぞれに考えさせたのち、挙手によって案を集め、さっそく投票ということすらある。それぞれの案にどういう意図があるかというやりとりすらない。そして、やってみてどうだったかという振り返りもなく、何度も行われる。その学級に多くあったというだけの感性により、いつも似たような遊びが選ばれる。51% 以上の生徒たちはいつも楽しく、49% 以下の生徒はいつも楽しくないという振る舞いに、誰も疑問を差しはさまない。それほど、教室での多数決は正義そのものである。

生徒たちが多数決に頼る理由はいくつかあるだろう。まず、多数の後ろ盾による責任の回避が考えられる。たとえば、委員が次に遊ぶ中身を示して企画したものの、あまり盛り上がらなかったとする。そうなれば、その責任は委員が負わねばならない。一方、多数決によって決まっていたのなら、「みんなが選んだから」となる。そもそも自らの意見を公に戦わせるほどのことはないと思っているかもしれない。たかがホームルームの遊びくらい、耐えるなりごまかしていればよいという感覚である。深い仲で遊ぶときには意見を言うこともあるだろうが、学級の中でわざわざこれがよいと述べる気にならないのである。

しかし、学校では集団における意思決定を学んでもらいたい。担任をしていても、これらをどう伝えるかは難しい。しかし、少なくとも「いつもすぐに多数決をしていると、多数派である感性のもとですべてが決まり、少数者はつねに無視される」ことは知ってもらわねばならないだろう。また、全体に向けて自らの意見にある意味を述べることの尊さもわかってもらいたい。また、委員がいるのなら、それは立候補であれ推薦であれ籤であれ、集団から選ばれている。どのように着地しても、選んだ集団の責任である。委員は自信を、集団は覚悟を持たねばならない。

とりとめがなかったが、記事から思い立ったことを書きつけておいた。


  1. ちきりん,終電だ!。Chikirinの日記,参照 2022-08-11。 ↩︎