緒言

準備をしてからどれほどの時間が経ったか、ようやくウェブログをはじめることができた。あとは続くかだが、それは信じたい。

何かを仕上げて残してゆくというよりは、あるとき振り返って考える糧になればよい。欠片でもとにかく置くことを大切にしたい。外の記事を示し、一言述べるだけということもあるだろう。むしろ、それ恥じないことによって歩むべきだ。

この文章は素晴らしい1。誰しもにこの気概を持ってもらいたい。昔のような書きものの文化が再び広まってほしいものである。

最後に、設立趣意をここにも写しておく2

  • ひとという生きものは、ひもすがら何かを感じ考えるものである。しかし、そのほとんどは埋もれてゆく。 そうして、同じことを繰り返し思いつき、同じことを幾度も悩む。そのいくらかでも振り返れるようでありたい。
  • そこで、日記をつけるひともいるだろう。 れはそれで味わい深い。しかし、日記は書くところに重きがある。私は思い出したい。想うに随った留め書き、その塵が積もるところとしてこれを立てる。
  • 役立つことは考えない。しかし、手元に残すだけでは曖昧になる。こうして読まれる形をとれば、自然と輪郭を持つ。
  • 外にそうしたところもあるが、いつ失われるかわからず、また恣にされかねない。 自らの足でここに立つことに意味があると思われる。

  1. 諏訪敬之,緒言。gfnweb,参照 2022-07-29。 ↩︎

  2. 追記 2024-01-28。直後の引用を含む。 ↩︎